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大阪市中央区の魅力大発見

大阪よいとこ一度はおいで!!<上町台地コース>

上町台地コース

大昔、現在の大坂の地は、ほとんどが海でしたが、上町台地だけが陸地であった為、高津宮をはじめ古くから歴史の舞台となってきました。また、秀吉によるまちなみ整備から近世・近代への歩みが点や線で結ばれるエリアでもあります。大阪城の外堀として誕生した空堀、合戦時の防衛ラインとなった寺町、江戸時代の「銅吹所(どうふきしょ)」跡、人形や玩具のまち」「まっちゃまち(松屋町)」があります。さらに近松門左衛門、伊原西鶴の墓や、直木三十五(さんじゅうご)記念館など、作家たちの面影をたどることができます。築百年の家を再生した町家、どこか懐かしい昔ながらの路地など、時間を忘れてほっこりできる、なごみのまち歩きのコースです。

空堀 直木三十五記念館 町家と共に残る懐かしい風情

 

 extnews_naoki060127.jpg木三十五は「直木賞」にその名を残す作家ですが、直木三十五自身についてはあまりにも知られていません。
直木三十五は「直木賞」にその名を残す作家ですが、直木三十五自身についてはあまりにも知られていません。
直木
直木三十五(なおきさんじゅうご)
生没年月日 明24年2月12日ー昭9年2月24日
本名=植村宗一。
大阪府大阪市南区内安堂寺町2丁目生まれ。
桃園小学校、育英高等小学校、市岡中学校と進み、一時、薬局勤務、奈良県の小学校の代用教員を務める。
明44年、早稲田大学英文科予科入学。2学期より高等師範部に転部するも、学費が払えず除籍。
大5年、同棲相手の仏子須磨子(のち結婚)との間に長女誕生。
早稲田美術研究会記者、大日本薬剤師会書記などを経て、
大7年、トルストイ全集刊行会(のち春秋社)を創設。
大8年4月から雑誌『主潮』を発行。その年、刊行会を離れ、鷲尾雨工とともに冬夏社を興すが、半年で倒産。
その後、雑誌『人間』や、三上於菟吉と創設した元泉社の経営を手掛けるが、いずれも事業としては失敗。
大12年、関東大震災後、帰阪して、プラトン社に入社する。
川口松太郎と二人で『苦楽』誌の編集を担当。この頃から大衆小説を書き始める。
映画の世界にも関心が深く、マキノ省三と共同で映画製作も手掛ける。
昭4年に『週刊朝日』に連載した「由比根元大殺記」や、
昭5年-昭6年に『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載した『南国太平記』などで、流行作家として地位を確立。
作風は、時代小説から、時局小説、現代小説など幅広く、大衆文芸を中心とした文芸評論や随筆も数多い。
昭9年、結核性脳膜炎で東大病院にて没。享年43歳。翌年、友人の菊池寛が「直木三十五賞」を設定、現在まで続く。

 

空堀 商店街

上町筋から松屋町筋まで東西800mの商店街。豊臣時代に大坂城の南の守りとして、水のない「から」の外堀がつくられたのが名前の由来。昔ながらの情緒を活かそうと、古い長屋・町家の再生など市民団体による、街づくりが進んでいます。空堀文化の拠点として、店舗を集めた建物の2階には、直木賞の名前で知られる直木三十五の記念館があります。別棟にはレンタサイクルもあり、まちめぐりには便利です。カフエや雑貨店も集まり商店街と不思議な調和を見せています。

錬 町家複合ショップ

うえいうえ木三十 五は、そのまま「なおきさんじゅうご」と読みます。「直木」は本名「植村」の「植」の字を分解惣複合ショップして作ったものです。「三十五」の方ううううは直木直木三十五は、そのまま「なおきさんじゅうご」と読みます。「直木」は本名「植村」の「植」の字を分解して作ったものです。「三十五」の方は直木が三十一歳になった時、「直木三十一」とし、自分の年齢に合わせ「三十ニ」「三十三」と変えていったようです。しかし「三十四」をとばして「三十五」で落ち着きます。(つまり三十三は二年間使用しました。)
本人の記す所によりますと、「三十三で留めておいたが、三三と重なるのは姓名判断上極悪であるという。なるほど余り貧乏が長過ぎる。素人考えから云っても「味噌蔵」だの「散々」だのと通じては縁起でもない。これを「みとみ」と読んで「粋な名だんな」という仲居があるに至

住友銅吹所跡 大坂あった日本一の銅吹所

 江戸時代の大坂は銅精錬業の中心地で、水運に便利な堀川沿いに多くの銅吹所があり、海外へも輸出していました。中でも全国一の規模だったのが住友銅吹所です。寛永年間(1630年代)に住友家二代友似(とももち)によってつくられ、幕末には、オランダ人シーボルトも見学しました。発掘調査により、敷地の東半分には約80基の炉跡などがあり、西半分には元禄初期に建築された住友屋敷があったことがわかっています。勘定場部屋の下の石組穴蔵は、地下金庫として金銀が収納されていたようです。



松屋町筋 人形と玩具のまち「まっちゃまち」

 人形(ひとがた)を流して厄払いをした古代の日本人。江戸時代には節句の風習と結びついて雛人形、五月人形などの節句人形が生まれました。「まっちゃまち」の呼び名で親しまれる松屋町筋は、中央大通りから南へ約1Kmの道沿いに、節句人形や玩具の問屋が数多く集まる人形のまち。近く「瓦屋町」の町名があるように、近世の大阪のまちづくりに必要な大量の瓦がこのあたりで焼かれ、やがて瓦職人が素焼きの人形をつくるようになって、人形店が立ち並ぶようになったと言われています。



近松門左衛門墓所 ひっそりと眠る近世演劇の巨人

 武士の家に生まれながら、芸能の世界へ入った近松門左衛門は、享保9年(1724)に72歳で亡くなるまで、浄瑠璃や歌舞伎の作者として数々の傑作を遺しました。特に『曽根崎心中』のように実際に起きた心中事件などを、現代のニュースのような感覚で取り上げた作品は当時の流行となり、観客の町人たちは悲劇に涙を流しながら見入りました。近松の墓はもともと法妙寺の境内にありましたが、寺が移転にたため、今は墓だけがビルの合間の細い路地の奥に残されています。 



井原西鶴墓所
 浮世草子を確立し俳諧でも活躍

 近松門左衛門、松尾芭蕉と並ぶ、上方元禄文芸の巨匠、井原西鶴は、寛永19年(1642)、大坂の裕福な 商屋の家に生まれました。経済のバブル期であった元禄時代、浮世(現実の世相)を背景に、愛欲や金銭に執着しながらも自分の才能で生き抜く人々の姿を描き、「浮世草子」というジャンルを確立しました。住吉大社で一昼夜23500句の俳句を読み、多数吟の最高記録もうち立てています。



高津神社
 仁徳天皇を仰ぎ落語の舞台にも

 仁徳天皇を祀る神社。仁徳天皇は人家のかまどから立つ煙が乏しいのを見て、生活に苦しむ人々から税を取るのをやめた話で知られています。神社はかつて大坂城付近にありましたが、秀吉の築城に際してこの地に移転しました。江戸時代には寺や神社の修理基金を集める目的で富くじ(宝くじ)が盛んに行われ、「高津の富」という落語の舞台にもなりました。今の絵馬堂のあたりは全国に知られた展望の名所で、望遠鏡を貸して大坂のまちを説明する「遠眼鏡屋」という商いもあったそうです。



中寺
 寺を盾にした豊臣秀吉の戦略

 豊臣秀吉が大坂城を築いて城下町整備を行った時、多くの寺院を集めた「寺町」が、我が国で初めてつくられました。寺を集めることで、合戦の時の防衛ラインにしようと考えたのです。実際に、大坂夏の陣では、大坂城から四天王寺にかけて西軍と東軍の激しい戦いが行われました。現在でも、木造の古いお寺が残っています。人形浄瑠璃の発展に寄与した豊竹若太夫や歌舞伎役者の墓所、梶井基次郎の墓所が境内にある寺もあります。



大槻能楽堂
 歴史ある舞台芸能・狂言を継承

 槻能楽堂は、能や狂言を中心に上演する全502席の能楽堂です。大阪城最大の石垣の石面を実物大に写し取った橋掛かりの背景などに特徴があります。能楽は約600年の歴史がある、現存する世界最古の舞台芸術です。物まね芸能であった猿楽は、鎌倉時代、能と狂言に分かれました。能は悲劇的な歌舞劇で、主人公の多くは幽霊。自らの人生を語る中に、人間の本質や情念が描かれます。それとは対照的に、狂言は猿楽から笑いの要素を取り出したもので、たいていは能と一緒に演じられます。