大阪市西区の魅力大発見
土佐稲荷神社 (西区北堀江4-9)
土佐稲荷神社は、土佐高知藩蔵屋敷の鎮守社(ちんじゅしゃ)として、明和7年(1770)山城国伏見稲荷神社の分霊を勧請したと伝え、また古く天正年間(1573-92)の創建で、享保2年(1717)土佐高知藩主山内豊隆が家臣に命じて社殿を造宮し、一般の参拝を許したともいう。慶応4年(1868)の堺事件のとき、フランス兵を斬った藩士箕浦猪之吉(みのうらいのきち)らは、明治政府がフランス公使ロッシュの要求を入れて20人の切腹を命じたため、この稲荷神社前境内でクジを引き、20人の犠牲者を決め翌日堺の妙国寺へ護送されたという。境内は江戸時代から桜の名所として知られ、嘉永4年(1851)建立された其角…
西長堀川と鰹座の跡 (西区北堀江4-1)
長堀川は寛永2年(1625)に開削された運河で、 東横堀川から分流して西に流れ、 木津川に注いでいた。長さ22町22間半 (約2.441m)、幅は上流で25間(約45.3m)、 下流で24間半 (約44.3m)あり、西横堀川 以西は西長堀川とも呼ばれていた。 昭和45年に埋め立てられて姿を消したが、西横堀川以西の西区地域には、 東から吉野屋橋・西長堀橋・宇和島橋・西大橋・富田屋橋(とんだやばし)・ 上白髪橋(後の白髪橋)・…
和光寺 (西区北堀江3-7)
和光寺は、元禄11年(1698)堀江新地開発のとき、幕府の命により境内1800 坪を永代寺地と定められ、智善上人が善光寺(長野県)本尊出現の地として寺堂を建立し、蓮池山智善院和光寺と称したと伝える。『摂津名所図会大成』によると、江戸時代には本堂のほかに観音堂・普門堂・愛染堂・薬師堂・抹香地蔵(まっこうじぞう)・閻魔堂(えんまどう)・地蔵堂・金毘羅権現・鐘堂などを有する大寺で、境内の一隅阿弥陀池の中央には放光閣という宝塔があり、境内および周辺には講釈の寄席・浄瑠璃の席・大弓や揚弓・あやつり芝居・軽業の見世物や物売りの店が並び、毎年2月の涅槃会(ねはんえ)や4月の灌仏会(かんぶつえ)は、…
伏屋素狄顕彰碑 (西区北堀江3-7 和光寺内)
阿弥陀池のほとりには、昭和42年11月、日本医師学会・日本生理学会発起、日本医師会賛助で、「実験生理の祖伏屋素狄(ふせやそてき)」の碑が建てられた。伏屋素狭は河内日置荘(ひきのしょう)(堺市)に生まれ、14歳のとき和泉池田村(和泉市)万町の旧家伏屋氏の分家に養子となった。漢方医学を学び、大坂に移って開業したが、のち西洋医学を学び、生理学上の動物実験をくりかえして『和蘭医話』を著した。腎臓に墨汁を注入した実験で、「腎は小便漉し役」であることを発表したが、この成果はヨーロッパの学者よりかなり早い業績であった。文化8年(1811)11月に没したが、墓が失われたため、前記のようにゆかりの地に…
大阪木材市売市場発祥の地 (長堀通中央分離帯内)
大阪木材市売市場発祥の地 元和末年の頃から諸国の材木が 大量に大坂に集まるようになった。 これを迅速に売捌くため、材木産地の 土佐藩から幕府に願い出て、寛永初年 (1625-26)開削された立売堀川や西長堀川 に材木の市場を開く許可を得た。 これが木材売市場のおこりである」 &n…
間長涯天文観測の地 (西大橋駅自転車駐車場南側)
間長涯(はざまちょうがい)は、江戸中期の暦学者・天文学者である。名は重富(しげとみ)・字は大業、家は代々長堀の十一屋という質屋で、通称を五郎兵衛(ごろべえ)といった。麻田剛立(あさだごうりゅう)から天文学を学び、寛政7年(1795)幕府の改暦にあたり、高橋東岡とともに師の剛立から推薦され、江戸に行って3年で寛政暦を完成させた。その功によって幕府から直参にとりたてられようとしたが、これを辞退して帰坂した。そのため大阪に邸宅を与えられ、苦心研究の結果作りあげた観測機をもって、自宅前の富田屋橋(とんだやばし)で天体を観測したときには、市民の通行を止められたという。観測機や技術は、のち伊能忠…
四ツ橋跡(大阪市長堀バス駐車場東端四ッ橋高速道路下)
四ツ橋は、もと長堀川・西横堀川に架かっていた炭屋橋・吉野屋橋・上繋橋(かみつなぎばし)・下繋橋(しもつなぎばし)の総称である。 4つの橋が東西南北に交差する2つの川に井桁状に架かっている珍しさから、浪花の名物であった。 江戸時代にはこの付近に煙管(きせる)を商う店があり、名産「四ツ橋煙管」として知られて&nb…
角藤定憲改良演劇創始の地(西区新町2-6 新町南公園東北隅)
新町南公園の東北隅に、喜多村緑朗(きたむらくろう)書の「角藤定憲(すどうさだのり)改良演劇創始之地」という石碑がある。そのすぐ北側の現在の大阪屋書店の地は、もと新町座のあったところで、明治21年12月3日、角藤定憲が板垣退助の後援を得て、改良演劇と称して荘土芝居を公演した。角藤定憲は明治40年1月神戸の大黒座楽屋で急死したが、たまたま昭和33年、劇団新派の関西来演をきっかけに、川口松太郎(まつたろう)・長谷川幸延(ゆきのぶ)・長谷川貞信(さだのぶ)・中村貞以(ていい)・菅楯彦(すがたてひこ)ら15人が発起人となり、角藤定憲の功績をたたえるため碑が建てられた。 …
初世中村鴈治朗生誕の地 (西区新町1-17)
初世中村鴈治朗(がんじろう)は、名優の三代中村翫雀(がんじゃく)の子として、この地にあった揚屋「扇屋(おうぎや)」で万延元年(1860)に生まれた。実川鴈治朗の名で13歳で初舞台を踏み、明治11年に中村鴈治朗と改名した。近松の世話物に秀いで、「頬かむりのなかに日本一のかお」といわれ、近代上方歌舞伎界を代表する名優となり、昭和10年2月1日75歳で世を去った。 …
新町九軒桜堤の跡 (西区新町1-15 新町北公園)
九軒町は、江戸時代初頭に幕府が大坂で唯一公認した新町郭の中でも格式の高い町筋で、 西鶴の「好色一代男」や近松の「タ霧阿波鳴渡」で知られた吉田屋がその中核をなしていた。文政2年(1819)にこの地に植えられた桜は、九軒町の夜桜として『浪花名所図会』にも紹介され有名であった。花街に花を咲かせて、新町かいわいの情緒をより一層盛り上げて賑わったことが伝えられ…
薩摩堀川跡 (西区立売堀4-2 薩摩堀公園内)
薩摩堀川は薩摩屋仁兵衛(さつまやにへえ)が寛永5年(1628)に起工し、同7年に完成した堀川で、はじめ阿波座新堀といい、のちに薩摩堀川と呼ばれるようなった。開削者薩摩屋仁兵衛の名(屋号)が川名になったとも、薩摩(鹿児島県)の商船がこの堀川を利用し、多くの物産を運送したため薩摩堀川と改められたともいうが、阿波堀川から分流して願慶寺(後の広教寺)の東側を流れ、いまの薩摩堀公園のやや西の地点で西北に折れまがり、百間堀川に流入していたので願慶寺堀とも呼ばれた。開削時には長さ7町41間半(約838.7m)、幅14間(約25.3m)であったが、のち明和4年(1767)川幅8間(約14.5m)にな…
大阪商業講習所跡 (西区立売堀2-2 阿波座南公園西南隅)
大阪商業講習所は、大阪が近代化からとり残され、従前の繁栄を将来に維持することが出来ないことをおそれた五代友厚(ごだいともあつ)らが、商業上の改良・進歩をはかるため、商業教育機関設立の必要を感じ、明治13年開設したものである。この講習所は、翌明治14年には大阪府の管理となったが、経費は有志の寄付によって支弁していた。のちに府立大阪商業学校から市立の大阪高等商業学校→大阪商科大学→大阪市立大学と発展した。阿波座南公園南隅に市制70周年記念として昭和36年大阪市が建立した「大阪商業講習所跡」の碑がある。 …
明治橋跡(西区立売堀2-1-9)
明治橋は立売堀川の上流から数えて第4 番目の橋として明治9年2月に架けられた。明治に創設したので、この橋名がつけられた。昭和2年10月に上路式鋼鈑桁橋に架けかえられ、御影石の親柱の上に青銅製の照明灯が燈龍状(とうりゅうじょう)に立ち上がっていた。欄干には、みおつくしにわらびもん模様をあしらった、当時としては珍しいデザインが施されていた。戦後、高潮対策により他の堀川とともに立売堀川も埋め立てられ、昭和30年1月に明治橋も姿を消した。 …
立売堀川の跡 (西区立売堀1-4)
立売堀川は西横堀川から分かれて西に流れ、木津川と百間堀川の合流点に入っていた堀川で、昭和31年1月に埋め立てを完了して姿を消した。伊達(いたち)堀とも鼬堀(いたち)掘とも書いたが、立売堀を「イタチボリ」と読ませることについては、『摂津名所図会大成』 に、「慶元戦争(大坂冬の陣・夏の陣)の時、伊達家の陣所の地にして、要害の堀切なりし跡を穿足(ほりた)して川とせし故に、始は伊達(だて)堀とよべり。後に字音(じおん)のままに伊達(いたち)ぼりと言ひしを、俗に訛りていたちぼりと言ひならわせり。其後にはじめて材木の立売を御免なりし故に、立売堀とあらためしとぞ」とある。開削は元和6年(1620)…
大阪府庁跡 (西区江之子島2-1)
明治4年7月の廃藩置県、同年11月の地方府県大改革により、 大阪府の管地は大阪市街地の4区(東・西・南・北)および摂津の島上(しまがみ)・島下(しましも)・豊島(てしま)・西成・東成・住吉・能勢(のせ)7郡となった。当時の府庁は東横堀にあったが、建物は狭く府政の中心としては不適当であったため、翌5年、大阪府は官民共同の費用をもって江之子島に新庁舎を建てることにし、ただちに着工した。新しい府庁の所在地として江之子島が選ばれたのは…
阿波堀川跡 (西区江之子島2-1)
阿波堀川は阿波座堀川とも呼ばれ、西区にあった堀川(運河)の中では最も古く、慶長5年(1600)に開削され、西横堀から分流して西に流れ、百間堀川に流入していた。最初は長さ627 間半(約1136m)、幅は上流で10間(約18.lm)、幅は下流で15間(約27.2m)であったが、明和4年(1767)に両岸を埋め立て、8間(約14.5m)になった。昭和31年9月、大阪府の防潮堤エ事などのため全部埋め立てられたが、それ以前には阿波堀橋・靭橋・花屋橋・奈良屋橋・太郎助橋・松栄橋・岡崎橋・豊橋の8橋が架かっていた。「阿波堀川跡」の碑は、昭和34年1月大阪府が建立したものである。なお、この川の上流…
雑喉場橋跡 (西区江之子島1-9)
雑喉場橋は、明治7年江之子島に大阪府庁舎が建設された翌年百間堀川に架けられた。東岸には有名な雑喉場の魚市があった。 …
大阪市役所江之子島庁舎跡 (西区江之子島1-9)
大阪市が誕生したのは明治22年(1889)だが、初めは、特例で府知事が市長の職務を代行するといった変則的なものであった。 旧大阪府産業技術総合研究所のところにあった府庁に借家住まいで、市役所の看板を掲げることさえままならない不遇時代である。ようやく一人立ちして自治行政が行われるようになったのは明治32 年(1899)で、初代市長に田村太兵衛を選び、小規模ながらも庁舎を独立させて市政発展の道が開…
雑喉場魚市場跡 (西区江之子島1-8)
「雑喉場魚市場跡」の碑が建っている新なにわ筋の周辺一帯は、江戸時代には雑喉場町と呼ばれ、堂島東市場・天満青物市場とともに、近世大阪の三大市場と称された雑喉場魚市場があった。この地は古くは鷺島(さぎしま)といい、元和年間(1615-24)上魚屋町(現在中央区)の生魚商人らが、同地が川口に遠く魚荷の到着に不便であり、夏季には生魚の腐敗のおそれがあったため、漁船の出入りの便を考えて出張所を設けた所であった。そのため多数の魚仲仕らはこの付近に群居し、雑喉類(雑魚=小魚)を販売する者も集まって、鷺島の名は次第にすたれ、雑喉場と呼ばれるようになったという。その後雑喉場市場では、安永3年(1771…
京町堀川跡(西区江之子島1?7 靭防潮用具庫前)
京町堀川は、元和3年(1617)伏見京町から移住してきた町人らによって開削されたもので、伏見堀川とも呼ばれ、西横堀川から分流し、西南に流れて百間堀川に流入していた。開削当時は長さ9軒59間1尺(約1080M)、幅は上流で14間(約25.4M)、下流で19間(約34.4M)もあったが、のちに川幅はせばめられた。昭和30年6月、大阪府の防潮堤工事のため埋め立てられたが、その直後には東上橋、伏見橋、羽子板橋、紀伊国橋、新難波橋、千秋橋、千両橋、両国橋、茂左衛門橋の9橋が架かっていた。「京町堀川跡」の碑は、昭和34年1月大阪府が建立したものである。 …
永代浜跡(西区靭本町2-1)
今の靭本町には、もともと海部堀川(かいふほりがわ)があった。 元和8年(1622)に移住してきた靭の塩干魚商人らが、荷物陸揚げの便を良くする為に、寛永元年(1624)開削したもので、阿波堀川から起こり、北進してもとの海部町東端で直角に屈折し、西流して京町堀川に流入していた。この阿波堀川から屈折点までの724Mを永代堀(えいたいぼ…
永代橋・門樋橋跡(西区靭本町1-20 なにわ筋道路敷地内)
両橋は寛永元年、靭の塩干商人が荷揚げに便利なように開削した海部堀川に架かっていた。門樋橋は初めは門樋(水門)であった。…
信濃橋洋画研究所跡(西区靭本町1-11)
大正13年(1924)4月に信濃橋西北角の日清生命ビル4階に開設される。大阪に香り高い文化を根づかせようと、小出楢重、黒田重太郎、国枝金三、鍋井克之らが中心となって大阪の洋画壇に新風を送り、特色ある教育により多くの画家を輩出した。研究所は昭和6年に中之島に移り、中之島研究所となったが、昭和19年に閉鎖された。その間、大阪の近代洋画界の発展に貢献するところ大であった。…
靭公園と石碑(靭本町1-2)
靭公園の一帯は、江戸時代以来、海産物を取り扱う問屋・仲買が集中していたところであったが、昭和6年11月、これら問屋・仲買が大阪市中央卸売市場に吸収統合されたあと、第二次世界大戦中のアメリカ軍の空襲により荒地となった。戦後、この場所に目をつけた在日アメリカ軍が整地して、小型機発着場となり靭飛行場と通称された。昭和27年6月に飛行場が連合国軍がら返還されたとき、大阪市は跡地を残して着工し、92000?の大公園を昭和30年10月21日完成した。公園内には「靭公園の由来」を示した石碑のほか、昭和40年4月に「緑化第二年植樹」、昭和43年4月に彫像「勇者に栄えあれ」およびその解説の石碑が、大阪市によって…
中天游邸跡(工事により撤去中)
中天游(なかてんゆう)は大阪蘭学の祖・橋本宗吉の弟子であるが、当時の医師番付によると、宗吉は前頭13枚目、天游はそれより上の6枚目に名が見えている。後年、バルヘインの解剖図譜を翻訳し、江戸の葭島(よししま)で死刑囚の遺体を解剖したこともあるが、もともと理学の才に恵まれた人らしく「視学一歩」は眼の光学について述べたわが国最初の学術書で、ほかにも「引律」(物理学)・「天学一歩」(天文学)・「算学一歩」(数学)といった訳述がある。天游は医業のからわら京町堀の邸に<思々斎塾(ししさいじゅく)>という蘭学塾を開いて、西洋医学の教授に当たった。門下の逸材に緒方洪庵がいる。 …
関西法律学校発祥の地(西区京町堀2-3)
関西法律学校は、目地19年(1886)1月4日、当時大坂控訴院長であった児島惟謙8のち大審院院長)らの賛成と得て、明治義塾旧監事吉田一士・法律学士鶴見守義・同小倉久がこの地のもと、願宗寺内に創立したのものである。創立当時の講師小倉・鶴見のほか、井上操・堀田正忠・手塚太郎・志方鍛で、児島のほか大坂始審裁判所長の大島貞敏、および土居通夫(のち大坂商業会議所会頭)らが名誉校員であった。現在の関西大学の前身である。大阪市の顕彰史跡に指定され、昭和49年3月、「関西法律学校発祥の地」の石碑が建てられた。 …
此花乃井(西区江戸堀2-8 花乃井中学校内)
花乃井中学校の校庭は、江戸時代に石見津和藩(亀井氏・4万3千石)の蔵屋敷があった。ところで屋敷内の井戸は大坂では珍しく良質の飲料水をたてていた。慶応4年(1868)明治天皇が大坂北御堂を行在所とされたとき、この井戸水を用水に供し、「此花乃井」の名を与えられ、以来通称を「花乃井」と呼び、大阪の名水として評判であった。明治42年(1909)5月、有志によって「此花乃井」の碑が建てられたが、昭和15年11月、この名水を永く保存するため、江戸堀町会連合会により、さらに石碑が1基建てられた。校名は通称の「花乃井」からとったものである。…
花乃井橋跡(西区江戸堀2-8 花乃井中学校内)
花乃井橋は堂島大橋?芦原橋間の市電開通に際し大正9年に江戸堀川の第6橋として架けられた。当時の橋柱が残されている。 …
大村益次郎寓地跡(江戸堀2-6)
大村益次郎は、幕末の軍政家である。文政7年(1824)周防(山口県)秋穂村(あいおむら)の医師藤村考益(こうえき)と、その師村田良安の娘との間に生まれ、祖父の家(村田家)ついだ。幼名を惣太郎、大坂修行時代は良庵、宇和島藩勤務時代は蔵六と名のり、のち大村益次郎と改名した。 日本の近代的軍制をたてた人であるが、弘化3年(1846)23歳の時、大坂にでて緒方洪庵の適塾に入門し、塾長時代に江戸堀に居住した。これ以来大坂の関係が深く、軍事上における大坂の重要性に注目し、明治2年(1869)兵部大輔(ひょうぶだゆう)に任ぜられると、すぐに鎮台建設地・兵学校敷地などを検分して、天保山で海軍…
先賢景仰碑(西区江戸堀1?21西船場小学校内)
西船場小学校は昭和18年に東江小学校を改称したものである。旧名の「東江」というのは、東江戸堀という意味で、 この地には江戸時代以来おくの先覚者・学者・文化人らが生まれ、または寄寓して活躍した。そこで昭和20年10月、 東江小学校創設50周年を記念して校庭に建てたのがこの「先賢景仰碑」で、藤沢章の撰文には、頼山陽・篠崎三島(さんとう)・篠崎小竹 (しょうちく)・後藤松陰・並河寒泉(かんせん)・武内確斉・広瀬筑梁(ちくりょう)・河野恕斎(こうのじょさい)・春田横糖(おうとう)・ 金本摩斎・新興蒙所・尾崎南竜・下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)・江田世恭(ながやす)・鶴峰戊申・萩原広道・森周峰(し…










